印度維新

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インド独立記念日に寄せて、日本に心から感謝の意を伝えたい

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夫著

8月15日はインドの独立記念日でもある。今年、インドは73回目の独立記念日を迎えた。妻とこのブログを始めてから2ヶ月あまりとなるが、なかなか日本に感謝の気持ちを伝える機会がなかった。今日が私にとって(そしてインドの人々にとって)のその日だ。インドが2世紀近くに渡る植民地支配から独立を勝ち取るのに、日本が果たしてくれた大きな役割に対して、心から感謝の意を伝えたい。

 

インド独立運動の歴史は1947年8月15日の1世紀以上も前に遡る。日本はその独立運動の中でも極めて重要な2名を保護し、支援した。ラシュ・ビハーリー・ボースとスバス・チャンドラ・ボースだ(同じ苗字だが、血のつながりはない)。

 

ラシュ・ビハーリー・ボースは、後に大英帝国と戦うこととなるインド国民軍の設立の父だ。20世紀初めにインド独立運動に参加し、過激派として指名手配され、1915年に日本に逃れた。当時、日英同盟を結んでいた日本は、大英帝国の要求によりボースに国外退去命令を出したが、頭山満犬養毅内田良平などのアジア独立主義者たちの働きかけで、同年中にその退去命令は撤回された。彼は日本にインドカレーを伝えた人物としても有名だが、大英帝国の追っ手から彼をかくまったのが新宿中村屋相馬愛蔵・良夫妻だ。その後、夫妻の娘婿となり、取締役も務め、「中村屋のボース」とも呼ばれる。1923年に日本に帰化している。

 

ボースは日本で、A・M・ナイルなど当時日本に亡命していたインド独立運動家たちと協力しあい、日本政府に働きかけ、インドの独立運動を支持するよう説得した。ボースは1942年3月28−30日に東京で会議を開き、インド独立連盟を設立することを決定した。インド独立連盟の2回目の会議は1942年6月22日にバンコクで開催されたが、この時にもう一人の指導者、インド独立運動家として内外に知れ渡っていたスバス・チャンドラ・ボースインド国民軍指導者の後継者として招へいすることを決定した。そして、ラシュ・ビハーリー・ボースとA・M・ナイルは、スバス・チャンドラ・ボースを日本に移送するよう日本政府を説得した。

 

インド独立連盟の軍部、インド国民軍Azad Hind Fauj)は1942年に設立され、ラシュ・ビハーリー・ボースが掲げたインド独立運動の旗(Azad Hind – インドを解放せよ)はスバス・チャンドラ・ボースに引き継がれた。スバス・チャンドラ・ボースはネタジと敬称で呼ばれることも多いが、それはヒンディー語で「指導者」という意味だ。ネタジは偉大な独立運動家として、インドでは多大な尊敬を集めている。しかし、大英帝国からの独立を勝ち取るに当たっての彼の役割、そして、その残した業績の意味が人々に深く認知されるようになったのは、近年になってからだと、個人的には感じる。

 

ネタジは大英帝国の暴政からの独立を熱望していた。彼はインド国民会議派の急進派として活躍し、議長にまで上り詰めたが、非暴力主義のマハトマ・ガンディーに異を唱えたことで党幹部から不信任を突きつけられ、議長辞任に追い込まれた。第二次世界大戦勃発後は自宅に軟禁された。1941年、彼はインド独立への支持を表明していたドイツへと渡る。しかし、太平洋戦争が進行する中で、運動の拠点を東南アジアに移すことを考えた。1943年2月にドイツ軍のUボートでフランス大西洋岸のブレストを出航し、同年4月にマダガスカル島東南沖で日本海軍の潜水艦に乗り込んだ。そしてスマトラ島北端のサバン島で日本軍の航空機に乗り換え、同年5月に東京に到着した。

 

日本政府の積極的な支援のもと、ネタジは大英帝国を打倒すべくインド国民軍を鼓舞し、当時の昭南(シンガポール)に自由インド仮政府を設立した。そのカリスマ的魅力で国民軍の募兵を積極的に行い、ラジオで対英闘争の継続を訴えた。当初はネタジを高く評価していなかった東條英機は、後にネタジの人柄に魅せられ、彼の東亜解放思想が自らが唱える大東亜共栄圏成立に不可欠と考えるようになったということだ。東條は、ネタジの意思を尊重し、独立を果たしたインドを大東亜共栄圏に組み込まないという考えを明確にしていた。しかし、ネタジは1945年8月、日本敗戦と時を同じくして飛行機事故で亡くなった。翌月、遺骨は日本に運ばれ、杉並区蓮光寺にて葬儀が営まれ、大部分の遺骨は今も同寺に託されている。

 

ネタジのレガシーを語る時、彼のとった行動の中でしばしば問題視されるのが、戦時中のドイツ政府との協力関係だ。人が何かを選択する背景は複雑だ。ネタジには熱望する目的があった。それは大英帝国からの独立だった。2世紀に渡る植民地支配で、インドは貧しくみすぼらしい国と化していた。人災とも言える飢餓で何百万人もが亡くなった。ネタジは大英帝国の軛からインドを解き放たなければならないと考えていた。

 

インドの独立は様々な要因が重なって達成されたものだ。第二次世界大戦後の大英帝国の力は弱り切っていたし、非暴力を訴えるマハトマ・ガンディーの不服従運動は大きなうねりとなっていた。しかし、個人的には、国民のインド国民軍への支持とそれに伴う行動が、大英帝国に対し「インド国民は独立を求めている」という明確な合図になったのではないかと考える。

 

日本には改めて感謝の意を伝えたい。私は日本の国民のみなさんが今日、8月15日という日に複雑な感情を持っていると理解している。しかし、これだけは覚えておいていただきたい。インドは鎖に繋がれ、破綻していた国だった。あなた方の先人の行動が、インドという古代文明をその鎖から解き放つのに大きな役割を果たしたのだ。私は、インドと日本の関係が今後ますます強化されることを願って止まない。インドはまだ日本への恩返しをしていない。

 

モディ首相は2014年の来日の際、元インド国民軍将校で、日本と共に大英帝国と戦ったネタジの同僚だった三角佐一郎氏(当時98歳)と面会し、敬意を表明した。添付の写真はその時のものだ。残念ながら日本ではあまり報道されなかったが、インドでは大きく報道された。翌年、インド政府はインドのために卓越した働きをした人に贈られる「パドマ勲章」を彼に授与した。

 

われわれのブログのアイコンは分かりにくいかもしれないが、ネタジの横顔だ。

 

 

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