マルチリンガルを奨励するモディ政権
インドでは州によって言語が異なる。それらは単なる方言ではなく、言語が違えば、筆談もできない。連邦政府の公用語はヒンディー語だが、州の公用語としては英語を含む22の言語が憲法で認定されている。だから、モディ政権が、コングレス党政権時代に比べて、積極的にヒンディー語の使用を国民に奨励した時は物議を醸した。
しかし、そんなモディ政権の教育政策2019の草案には「英語教育の強化」がある。モディ首相は通訳が要らないくらい英語が流暢なのに、公の場では通訳を介す。滅多に英語は話さない。旧植民地支配者の言語であり、インドエリートの言語である英語を好んでいないとも思うし、インド首相としての、古代から続く文明体の長としての自負がそうさせているのであろう。インドで英語の4技能を習得している人口は全体のほんの15%だ。ヒンドゥー至上主義と呼ばれるモディ政権が「英語教育の強化」を目標と掲げるのは意外と思うかもしれないが、今後グローバル化が急速に進むであろうインドで英語教育を強化することは極めて自然なことだ。
特に、草案の中で言及されているのが科学リテラシーだ。科学リテラシーとは「個人としての意思決定、市民的・文化的な問題への参与、経済の生産性向上に必要な、科学的概念・手法に対する知識と理解」である。英語と母語の両方でこの科学リテラシーを流暢に表現できるようになることが重要だとしている。インドで中流層以上の家庭の子どもたちが通う学校は私立であれ公立であれ、英語で授業を行うところが大半だ。母語/地域語は第二言語として必修科目、第三言語のヒンディー語はある一定の学年までの履修科目となっている。草案では全ての学校における英語教育の強化が謳われている。そして、マルチリンガル(英語、母語/地域語、ヒンディー語)であることを幼少期より奨励することで、英語を操る少数エリートと、その他大多数の非エリートに国が分断されている状況を打開できれば、としている。
さて、日本でも英語の4技能は、今後、日本人が否が応でも置かれる世界で、当然のごとく求められるようになるであろう。内外の様々な圧力で、経済大国としての重要性と影響力が少しずつ薄れていく中、英語を流暢に操る他国の人々との競争は激化していくと予想される。しかし、それは日本語を犠牲にして良いということではない。言語とはアイデンティティーだからだ。
イギリスのロンドン地区のエリート校では、特に難関と言われるセカンダリースクールの二次試験の合格者は、なんと9割近くがアジア系(主にインド系と中国系)だ。にわかに信じがたいと思うかもしれないが事実だ。プレップからの入学組がいなければ、白人比率はかなり低くなる。どこの国の学校?ってなもんだ。ハーバードのようにアジア系受験者に高いハードルを課しているわけでもなく、普通に試験で選考するとそうなってしまうようだ。日本の受験生もよく勉強するが、インド系、中国系の子どもたちはその上を行くイメージだ。母集団も大きい、エリート校ともなると本国から受験する子どもたちも年々増えている。これらの学校では、生徒の8割超がバイリンガル以上である。二次試験を通過すると面接だ。世界を牽引するグローバルリーダーを育成するという自負がある学校の面接官が見ているのはその子どもたちが背負っている文化だ。英語を流暢に操るその子どもたちに、誇りと自負を持つ母文化があるか、そして、それを持ってして学校コミュニティーに貢献できる資質があるか、という視点だ。
日本人としてのアイデンティティーを持つには、日本語に流暢であることが必須である(逆に、国際語である英語に流暢でも英語を母国語とする国の人としての自負はない)しかも、自然科学に強い日本の言語を習得することは、まさに科学リテラシーの向上にも役立つ。そして、日本語は英語よりずっと難しい。日本で生まれ育ち、帰国子女でもないのに、日米英の一流大学をハシゴし修士までとった私の経験からして(ドヤw)間違いない。日本人が英語圏の大学や大学院で学ぶことはできても、逆は極めて難しい。成長してから日本語4技能を社会で(ビジネスで)通用するくらいに習得することは並大抵のことではない。それに、日本語の国際性の低さから、英語圏の人々が非英語圏の人々の英語を受け入れる寛容さはビジネスの場の日本人にはない。国籍上は日本人だったり、見た目は日本人だったりすると、下手な日本語に対する寛容度は更に低くなる。
一方、日本語訛りを気にしてか、英語力に自信がないのか、英語となると寡黙となるのは日本人にありがちだ。日本語で話せば、「吉本か!」ってくらい面白いのに、英語になった途端に紳士然となるのは残念なことだ。余裕で自信がないと手を上げないのは国民性として、今だに母語訛りを恥じるってどうよ。日本人である以上、しっかり日本語を学んで、日本語訛りの英語を堂々と流暢に話して欲しい。